妄想。

これはとってもタイトルの選定が酷い記事だし、ついったをみると多くの人が見出しでカッカしちゃってて、その怒りのまま読んじゃうから、その結果出てくる感想も「日本アニメが受けるのは日本アニメなりの良さがあるからだ。世界の大勢にすり寄る必要はない」とか、「海外で評価されているアニメは面白いと思えない」とかいうありきたりなものになってしまう。その感想が出てくること自体、そしてその感想がウケること自体が、ここで言われてる「ガラパゴス化」なのだけど。
 
こんなにタイトルが酷いとなると、記事中の監督の発言もかなり歪曲されているんじゃないかと思うんだけど、そうだとしても結構面白い話になっている。
じっさい、今日では「子供も大人も楽しめる」とか「一見子供向けの話でありながら、実は大人にも刺さる深いテーマ」というのが、半ば掛詞的にアニメに寄せられる賛辞になっているわけだけれども、「それは裏を返せば『子供も大人も楽しめる』ものしか作れなくなっているということじゃないの?」という主張であり、そこから「結局、子供とも大人とも正面から向き合わないままアニメを作っているんじゃないの?」という問題提起まで行っちゃう内容なのだ。日本のアニメが、主人公を未成年の若者に据えながらも、中高年の大人がそれを見て「俺の話なんじゃね?」と思えてしまえるように、計算して作られているということ。物凄く乱暴に言ってしまえば、若者向けの皮を被った大人向けアニメを作っているということ。そして、それでは、「本当の子供向け」アニメは作れないし、同時に「本当の大人向け」アニメも作ることはできないということ。日本人は、ある意味で「歪な」アニメしか知らないせいで、そういった、ある意味で「正しい」アニメもあり得る、という発想をそもそも欠いている。それが「ガラパゴス化」で、それは結構憂慮すべきことなんじゃないのか。ここで言われているのは多分そーゆーことだ(実は、タイトルは酷いんだけれど、記事をちゃんと読めばそういうことを言っているということが分かる。ということは、この記事をまとめた記者さんはこの内容をこそ自覚的に伝えたかったのではないか、という気がしないでもない。それを分っていて、わりと誠実なタイトルと編集で原稿を提出したら、エラい人に「これじゃ読んでもらえないよ」と言われ、泣く泣くこんな風に変えざるを得なかった……とか、ちょっとだけ期待しているのだけれど)
 
だから、監督の言い分(上述の通り、本当に監督が何を言いたかったのかは勿論分かんないんだけど)に対して、「若者を主人公にしているからといってその年齢向けとは限らないでしょ」とか、「大人を主人公にすることが「本当の大人向けアニメ」の条件なのか?」とか、「そうじゃないアニメもたくさんあるでしょ」とか言うことは出来ても、「監督の言う『子供向け』像が古い」とか「子供向けアニメにも深い作品は沢山あるでしょ」とかいった反応を返してしまうのは、マジでおばかの証明にしかならないのだ。
「日本のアニメには独自の良さがあるんだから、世界の風潮にすり寄る必要はない」というのは、ちょっと判断が難しくて、この記事で批判されていることをすべて「独自の良さ」として引き受けた上でそれを言うなら、反論にもなるけれど、そうでなきゃ、条件反射的で、完全に的外れなアレルギー反応にしかならない。どうにもこんな締まらないタイトルを付けちゃったせいで、そのアレルギーを発症している人が異常に増えちゃったように思う。
 
こっからは俺の妄想の話*1
 
俺は、アレルギーじゃない方の仕方で「日本のアニメには独自の良さがあるんだから、世界の風潮にすり寄る必要はない」と言いたくなる。
 
ところで、日本語の「世代」という言葉には二つの使用法がある。一つは「中高年世代」とか「若者世代」というように、ある時点で特定の年齢層に属している人々を差す場合で、それが言われる時期によって対象のメンバーは変化する。もう一つは「団塊の世代」とか「ゆとり世代」という風に、ある特定の時期に生まれた人々を差すもので、いつ言われたとしても対象は変わらない。
俺が思うのは、「アニメを見る世代」と言った時に、その言葉がもし後者の意味に重点を置いて使われているのだとしたら、↑の記事が指摘する日本のアニメ業界の悪さを理解することが容易になるんではないかということだ。
というのは現実に、「ずっとアニメを観続けている人」がいっぱい居るからだ。
勿論そのこと自体は悲劇でもなんでもないのだけれど、そこに何らかの悪さがあるとして、それはどういったものになるだろう。
プリキュアを熱心に観ている大人には何らかの悪があるかもしれないが、そうだとしてもそれは単にその人のみに帰せられるものではない。より厳密に言えば、子供向けのアニメそのものが、部分的にはそういう人をターゲットにして作られていることへの悪なのだ、という方が、(↑記事の解釈としても、悪さを指摘する場合の一般的な主張としても)良い。しかし、これでもまだ正確ではない。(もし悪があるのなら、それは)製作陣が子供向けアニメに含めてきた大人向けの部分を抽出して、ガワも大人向けにした大人向けのアニメを創ろうとしても今さら出来ないし、視聴者もそんなアニメを観ることはとても出来ない(勿論それは「純粋な子供向け」アニメにも言えることだ)、という状況にある悪だ、と言ってしまう方が(もし、それが事実であるならば)ずっと適切だろう。
 
問題にされているのは、どちらかと言うと劇場アニメの話だろう。確かに、テレビアニメよりも、「未成年を主人公にした話」の割合は多い。未成年の話が、成長の話でなくてはならないのだとしたら、その作品のメッセージが達成される瞬間は、視聴者がもはやその話を観なくなる瞬間だろう。それ故、製作者が次に作品を創るときには、それは新たな未成年に向けて創られるべきであることになる。未成年の話を真に創り続けるということは、常に新しい人に向けて創り続けるということであって、同じ話の続編を同じ人に向けて創ることとは正反対に位置することだ(その点、↑記事で「この世界の片隅に」が子供向けの映画とされ、一見その拡大版に思われる「この世界のさらにいくつもの片隅に」が大人向けの映画と明言されているのがちょっと面白い)。コナンがそれに失敗しているというわけでも、トイストーリーがそれに成功しているというわけでもないかもしれないが、少なくとも、「子供も大人も楽しめるアニメ」といわれるものは、そうあろうとすることに、つまり真摯に「子供に向けたアニメ」を創ろうとすることに失敗した結果に過ぎないのではないか。それは、製作者と視聴者が、アニメに携わるすべての人間が、成長に失敗したということなのではないか。思えば、富野がΖガンダムあんな風に終わらせた時、庵野エヴァをあんな風に終わらせた時、それは「いつまでもアニメなんかみてないで成長しろ」というメッセージなのだと、一部では解釈されたのだった(もしそれが正しいのだとすると、ΖΖ以降のガンダムと新劇場版エヴァは、「続編」ではなく「語り直し」と見るべきだ、ということになるかもしれない。それは泥沼の論争になるだろうが、個人的には結構正鵠を射ていると思う)
 
だが、「人間には成長しない権利だってある」と主張することさえ、今日では可能な筈なのだΖガンダムの時代や旧劇エヴァの時代ならいざ知らず。
 
昔だって、昔のアニメを観て、それを一過性のものとして、人生のあるポイントに置き去りにして来た人も居ただろうし、ずっとアニメを観続けてきた人も居ただろう。そんなことはアニメに限らず当たり前のことだが、「別にそれでもいいじゃないか」と人間が言えるようになったのはかなり最近のことなのであって、それをもっと自覚的に言っていかないといけないと思う(「子供向けアニメを経ずに成長することも観続けたまま成長することもできるぞ」という一番真っ当な意見はここでは扱わない)
 
勿論、「子供は成長せないかん」とゆー話と「子供は成長せんでもええねん」とゆー話(その間には色んな立場があるけれど)のどっちが正しいねん問題に決着をつけることはできない(しかも決着が付かないうちに子供の方が勝手に成長していくという不毛さがある)。果たして「成長の話」ではない「子供の話」を描くことが出来るのか、という問題はさて置くとしても、どこからか一応の正しさを借りて来て、決着を付けなくてはならないが、少なくともその正しさに「世界の風潮」を借りて来ても多くの人を納得させることは出来ないんじゃないかと思う。それはもはや別に普遍的なものでもないのだから。
 
というわけで、俺は半ば以上、めちゃめちゃ消極的に日本のアニメには独自の良さがあるんだから、世界の風潮にすり寄る必要はない」と思っちゃったりしているのだ。

*1:と言った理由の一つは、↑記事はアニメを創る側の人が創る側に向けたメッセージであって、俺は観る側の人でしかないということだ