妄想。

これはとってもタイトルの選定が酷い記事だし、ついったをみると多くの人が見出しでカッカしちゃってて、その怒りのまま読んじゃうから、その結果出てくる感想も「日本アニメが受けるのは日本アニメなりの良さがあるからだ。世界の大勢にすり寄る必要はない」とか、「海外で評価されているアニメは面白いと思えない」とかいうありきたりなものになってしまう。その感想が出てくること自体、そしてその感想がウケること自体が、ここで言われてる「ガラパゴス化」なのだけど。
 
こんなにタイトルが酷いとなると、記事中の監督の発言もかなり歪曲されているんじゃないかと思うんだけど、そうだとしても結構面白い話になっている。
じっさい、今日では「子供も大人も楽しめる」とか「一見子供向けの話でありながら、実は大人にも刺さる深いテーマ」というのが、半ば掛詞的にアニメに寄せられる賛辞になっているわけだけれども、「それは裏を返せば『子供も大人も楽しめる』ものしか作れなくなっているということじゃないの?」という主張であり、そこから「結局、子供とも大人とも正面から向き合わないままアニメを作っているんじゃないの?」という問題提起まで行っちゃう内容なのだ。日本のアニメが、主人公を未成年の若者に据えながらも、中高年の大人がそれを見て「俺の話なんじゃね?」と思えてしまえるように、計算して作られているということ。物凄く乱暴に言ってしまえば、若者向けの皮を被った大人向けアニメを作っているということ。そして、それでは、「本当の子供向け」アニメは作れないし、同時に「本当の大人向け」アニメも作ることはできないということ。日本人は、ある意味で「歪な」アニメしか知らないせいで、そういった、ある意味で「正しい」アニメもあり得る、という発想をそもそも欠いている。それが「ガラパゴス化」で、それは結構憂慮すべきことなんじゃないのか。ここで言われているのは多分そーゆーことだ(実は、タイトルは酷いんだけれど、記事をちゃんと読めばそういうことを言っているということが分かる。ということは、この記事をまとめた記者さんはこの内容をこそ自覚的に伝えたかったのではないか、という気がしないでもない。それを分っていて、わりと誠実なタイトルと編集で原稿を提出したら、エラい人に「これじゃ読んでもらえないよ」と言われ、泣く泣くこんな風に変えざるを得なかった……とか、ちょっとだけ期待しているのだけれど)
 
だから、監督の言い分(上述の通り、本当に監督が何を言いたかったのかは勿論分かんないんだけど)に対して、「若者を主人公にしているからといってその年齢向けとは限らないでしょ」とか、「大人を主人公にすることが「本当の大人向けアニメ」の条件なのか?」とか、「そうじゃないアニメもたくさんあるでしょ」とか言うことは出来ても、「監督の言う『子供向け』像が古い」とか「子供向けアニメにも深い作品は沢山あるでしょ」とかいった反応を返してしまうのは、マジでおばかの証明にしかならないのだ。
「日本のアニメには独自の良さがあるんだから、世界の風潮にすり寄る必要はない」というのは、ちょっと判断が難しくて、この記事で批判されていることをすべて「独自の良さ」として引き受けた上でそれを言うなら、反論にもなるけれど、そうでなきゃ、条件反射的で、完全に的外れなアレルギー反応にしかならない。どうにもこんな締まらないタイトルを付けちゃったせいで、そのアレルギーを発症している人が異常に増えちゃったように思う。
 
こっからは俺の妄想の話*1
 
俺は、アレルギーじゃない方の仕方で「日本のアニメには独自の良さがあるんだから、世界の風潮にすり寄る必要はない」と言いたくなる。
 
ところで、日本語の「世代」という言葉には二つの使用法がある。一つは「中高年世代」とか「若者世代」というように、ある時点で特定の年齢層に属している人々を差す場合で、それが言われる時期によって対象のメンバーは変化する。もう一つは「団塊の世代」とか「ゆとり世代」という風に、ある特定の時期に生まれた人々を差すもので、いつ言われたとしても対象は変わらない。
俺が思うのは、「アニメを見る世代」と言った時に、その言葉がもし後者の意味に重点を置いて使われているのだとしたら、↑の記事が指摘する日本のアニメ業界の悪さを理解することが容易になるんではないかということだ。
というのは現実に、「ずっとアニメを観続けている人」がいっぱい居るからだ。
勿論そのこと自体は悲劇でもなんでもないのだけれど、そこに何らかの悪さがあるとして、それはどういったものになるだろう。
プリキュアを熱心に観ている大人には何らかの悪があるかもしれないが、そうだとしてもそれは単にその人のみに帰せられるものではない。より厳密に言えば、子供向けのアニメそのものが、部分的にはそういう人をターゲットにして作られていることへの悪なのだ、という方が、(↑記事の解釈としても、悪さを指摘する場合の一般的な主張としても)良い。しかし、これでもまだ正確ではない。(もし悪があるのなら、それは)製作陣が子供向けアニメに含めてきた大人向けの部分を抽出して、ガワも大人向けにした大人向けのアニメを創ろうとしても今さら出来ないし、視聴者もそんなアニメを観ることはとても出来ない(勿論それは「純粋な子供向け」アニメにも言えることだ)、という状況にある悪だ、と言ってしまう方が(もし、それが事実であるならば)ずっと適切だろう。
 
問題にされているのは、どちらかと言うと劇場アニメの話だろう。確かに、テレビアニメよりも、「未成年を主人公にした話」の割合は多い。未成年の話が、成長の話でなくてはならないのだとしたら、その作品のメッセージが達成される瞬間は、視聴者がもはやその話を観なくなる瞬間だろう。それ故、製作者が次に作品を創るときには、それは新たな未成年に向けて創られるべきであることになる。未成年の話を真に創り続けるということは、常に新しい人に向けて創り続けるということであって、同じ話の続編を同じ人に向けて創ることとは正反対に位置することだ(その点、↑記事で「この世界の片隅に」が子供向けの映画とされ、一見その拡大版に思われる「この世界のさらにいくつもの片隅に」が大人向けの映画と明言されているのがちょっと面白い)。コナンがそれに失敗しているというわけでも、トイストーリーがそれに成功しているというわけでもないかもしれないが、少なくとも、「子供も大人も楽しめるアニメ」といわれるものは、そうあろうとすることに、つまり真摯に「子供に向けたアニメ」を創ろうとすることに失敗した結果に過ぎないのではないか。それは、製作者と視聴者が、アニメに携わるすべての人間が、成長に失敗したということなのではないか。思えば、富野がΖガンダムあんな風に終わらせた時、庵野エヴァをあんな風に終わらせた時、それは「いつまでもアニメなんかみてないで成長しろ」というメッセージなのだと、一部では解釈されたのだった(もしそれが正しいのだとすると、ΖΖ以降のガンダムと新劇場版エヴァは、「続編」ではなく「語り直し」と見るべきだ、ということになるかもしれない。それは泥沼の論争になるだろうが、個人的には結構正鵠を射ていると思う)
 
だが、「人間には成長しない権利だってある」と主張することさえ、今日では可能な筈なのだΖガンダムの時代や旧劇エヴァの時代ならいざ知らず。
 
昔だって、昔のアニメを観て、それを一過性のものとして、人生のあるポイントに置き去りにして来た人も居ただろうし、ずっとアニメを観続けてきた人も居ただろう。そんなことはアニメに限らず当たり前のことだが、「別にそれでもいいじゃないか」と人間が言えるようになったのはかなり最近のことなのであって、それをもっと自覚的に言っていかないといけないと思う(「子供向けアニメを経ずに成長することも観続けたまま成長することもできるぞ」という一番真っ当な意見はここでは扱わない)
 
勿論、「子供は成長せないかん」とゆー話と「子供は成長せんでもええねん」とゆー話(その間には色んな立場があるけれど)のどっちが正しいねん問題に決着をつけることはできない(しかも決着が付かないうちに子供の方が勝手に成長していくという不毛さがある)。果たして「成長の話」ではない「子供の話」を描くことが出来るのか、という問題はさて置くとしても、どこからか一応の正しさを借りて来て、決着を付けなくてはならないが、少なくともその正しさに「世界の風潮」を借りて来ても多くの人を納得させることは出来ないんじゃないかと思う。それはもはや別に普遍的なものでもないのだから。
 
というわけで、俺は半ば以上、めちゃめちゃ消極的に日本のアニメには独自の良さがあるんだから、世界の風潮にすり寄る必要はない」と思っちゃったりしているのだ。

*1:と言った理由の一つは、↑記事はアニメを創る側の人が創る側に向けたメッセージであって、俺は観る側の人でしかないということだ

新海誠監督『天気の子』レポ 「今」を描くということ。

――これは僕たちの話だ。

 

映画の中盤に入る頃、降ってわいたその確信は、終幕まで途切れることは無かった。

先に言ってしまうと、僕はこの映画が『君の名は。』の百倍好きだと思った。正直言って震えた。僕の今までに観たアニメ映画の中で堂々の一位だった『サマーウォーズ』を抜いてしまったかもしれない。

 

物凄く失礼な言い方になるのだが、観る前にそこまでの期待はしていなかった。僕は新海誠監督の映画は全部好きという訳では無かったし(正直『秒速5センチメートル』は嫌いだ)、『君の名は。』も僕が本当に好きな映画とは思えなかったから。でも、とにかく画が綺麗だし、そこかしこで見た予告編から察するに、都会の話っぽかったから、僕の好きな街、東京の、前作で観た(もちろん『言の葉の庭』でも観た)あの綺麗な姿がもう一度観られるなら、それだけでも大満足だったから、わくわくして観に行った(僕は新海誠監督の画で、自然よりも都会の画の方が好きだ)。

でも、お話にはそこまで期待していなかった。

最初の二十分から三十分は、そういうモチベで観ていたと思う。主人公の背景が全く描かれないし、登場人物もそれほどキャラが立っているようには思えなくていまいち感情移入できなかったから。

だけれどあるシーンで観方が変わった。

それはごく何気ないシーンで、物語の「筋」にかかわるような大事なところではない。どんな内容なのか、ネタバレになってしまうので具体的なことは書けないけれども、要するにある大人が、歪になってしまった今の世界を、正常だった嘗ての世界と対比して慨嘆するのである。

 

ごく簡単に吐き出されたその言葉が不思議と際立って聞こえた理由は、すぐに分かった。

それだけが、この映画のここまでで、まったく逆の視点から投げかけられた台詞だったのだ。

そして、それ以外の全ては、子供の、「嘗ての世界」を知らない人の、今の世界しか知らない人の言葉なのだ。

そう思った瞬間、全部がひっくり返って、僕も映画に入り込めた。百倍面白くなった。それからは、最後までずっとだった。

 

これは、「今」の話だ。「今」の話なんだ。今を生きている人が、現実に感じている漠然とした不安、不信――それを表現した。そういう映画なんだ。強烈にそう思った。降り続く雨、明らかにおかしくなりつつある気候、ただ生き苦しさだけで故郷を飛び出し夢も持たずに都会へ出る人、お互い素性の知れない人の群れ。背景の無い他人。背景の無い自分。子供みたいな大人。脈絡の無い暴力。ネット。バイト。就活。映画に出てくるそれら全ては、今の社会を生きている人たちの感じていること其の儘なのだと思った。これはそれを、ありのままに表現しているような気がした。

 

僕は映画を全然観ないし、アニメにも詳しくないのだけれど、「今」という時代の雰囲気を描くことにおいて、ここまで傑出したレベルに到達した監督は、そうは居ないんじゃないかと思う。

たとえば、比べるのも本当におかしな話だけれども、僕の好きな『サマーウォーズ』の細田守監督とか、また僕の好きな宮崎駿監督の映画はこのような話には決してならないだろう。ファンタジーだからという話ではなくて、子供に「ありうべき姿」を見せる、一種の教育的な性格を持っていると僕は思うから。むろん、『天気の子』だって荒唐無稽なファンタジーだけれども、そこで描かれているものは、どうしようもなく僕達の目の前にある現実なのだった。

そして僕たち(主人公は十六歳だから、僕を「僕たち」に含めると怒られるかもしれないけれど)は「今」以外を知らない。僕たちが今感じている世界に対する不安感は、物心ついた時から僕たちの傍らにあった。気象変動もネットによる人間関係の崩壊も、とっくに起こっていたのだ。僕たちは本当の意味で「曾ての世界」を知らない。

それが僕らの普通なのだ。

それはある意味で不健全なことだ。悪いことだ。

でも――だからこそ――、主人公は物語の中途でこう願うのだ。「神様、今のままで良い。だから今の僕達から足したり引いたりしないでください*1」。

それは悪いことだけれど。

リアルな願いだ。

 

だからこれは「良い話」では無いかもしれないけれど、間違いなく「良い作品」なのだ。

 

この話のテーマに「天気」を選んだのは、本当に凄いと思う。世の中の不安を抱えて生きている人、露悪的に、斜に構えていないととても生きていけない今の人を描くときには、小難しいモチーフを持って来てしまう。けれど、そんな世界だからこそ、人は朝起きて天気が良いと気分も良くなり、悪いと気分も沈むという当たり前が映えて見えてくるのだ(それは「辛いときこそ人はそうしたものを大事にする」とも「そうしたものでしか心安らげないほど辛い」とも読める)。もう素晴らしくそれが見えてくるのだ。

 

色々講釈垂れることはそりゃあできるだろう。たとえば、セカイ系、と括ってしまうこともできるし、それはある意味全く正しいと思うけれど、そこで動機として描かれている「不安」は、これまでのセカイ系が描いて来たものと必ずしも同じではないとも思う。それは単なる「思春期特有の悩み」では決してない筈だった。

 

それに話の筋だけみれば、これまでまでと同じ「恋愛という至上命題のために種々の不都合が黙殺されちゃう話」だ言い切れると思う。思うが、しかし。

 

僕にとっての良さは、そこではなかった。

*1:記憶による再生のためズレ有り

艦これとは何だったのか 五年後になって思うこと 4

 前節までで、艦これ自体の成功の理由をちょっと考えてみた。この節では艦これの歴史性について述べると前節で予告したが、疲れたので述べられなかった。下はおまけみたいなものだ。読まない方が良い。

 

ぶっちゃけ、艦娘はある種の倫理的な問題に抵触しないのだろうか。

 

勿論、法的には「艦娘」は(DMM.comであれ角川ゲームスであれ)艦これ運営の著作物であり、一切の権利は艦これ運営にある。何故なら、くどくも繰り返すように、「艦娘」は名前を借りただけのキャラだからだ。裁判で「艦娘」の著作権について争っても、誰も勝てないだろう。

 

しかし、前節の「社にほへと」の所で述べたように、法的な問題がクリアされてもある種の問題は残るのではないだろうか。

 

筆者の友人が、テレビで「家庭教師の〇ライ」のCM、あの「アルプスの少女ハイジ」のアニメ映像に面白おかしいアフレコを施したCMに、憤慨していた。 曰く、「これを観て、絶対不快に思う人がいる筈や」と。

 

無論、あのCM映像は会社が放送局や製作会社と提携なりなんなりして正当な権利を勝ち得た上で製作しているものであろうから、法廷で争っても残念なことに友人に勝ち目は無かろう。もし原作者のヨハンナ・シュピリが蘇生して、あのCMに不満を抱き、法廷で争ったとしても、勝ち目はひくいだろう。

 

それには著作権が死後数十年で切れるという問題の他に、やはり艦娘とアナロジカルな構造があるのではなかろうか。ト〇イの「ハイジ」は、(家族的な?)類似性で繋がっているとはいえ、原作のとは最早別の「ハイジ」であるのだから、とやかく言われる権利はない、と。

 

まあ、確かにそうである。

艦を実際保有したままの大日本帝国海軍がもし現行の法体制下で艦これ運営と争ったとしたら、どうだろう。筆者は法学に明るくないどころか真っ暗なので、よく分らないが、やっぱり相当厳しいのではなかろうか。

 

しかし、気持ちの面ではやはり何か納得できない部分があるのも事実だ。

 

それはやはり「そうは言いつつも、お前がその類似性を利用してんじゃん」という所に起因するのだろう(法律的にもそこから叩けるかもしれない)。

 

 

 

また、今思いついたちょっと面白いかもしれないことを書いておく。

もし運営が艦娘と艦の関連性を否定したならば、取り残されるのは何者だろうか。そう、艦娘自身である。彼女たちは明確に一人称で「大和です」「赤城です」と名乗る。運営からもプレイヤーからも見放されても、彼女たちだけは艦の名前を以て自らを表明し続けるのだ。しかし、興味深いのは、彼女たち自身の自己認識においても、「艦」=「艦娘」とは了解されていないらしいことなのだ。何故なら、彼女らの自己紹介文には、ある種の客観性が認められるからである。

ある艦娘の自己紹介文を見てみよう。

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私、加賀は八八艦隊三番艦として建造されました。
様々な運命のいたずらもあって、最終的に大型航空母艦として完成しました。
赤城さんと共に、栄光の第一航空戦隊、その主力を担います。

 

少しだけ不思議な文章である。二文目まで過去形、最終文は現在(もしくは未来)形だが、これは「加賀」という空母のモノローグとして読むことも可能であろう。ただ、一・二文目はやや客観的な視点からの物言いになっていることに、一抹の違和感がある。

では彼女が言及している「赤城さん」はどうだろう。

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航空母艦、赤城です。
空母機動部隊の主力として快進撃を支えます。
日頃鍛錬を積んだ自慢の艦載機との組み合わせは、無敵艦隊とも言われたんです。
慢心…ですって?
ううん、そうかなあ……気をつけますね。

 

これもちょっと不思議だ。三文目の過去形の使い方はまるで「今は無敵艦隊と言われていない」こと、即ちミッドウェー海戦後であることを示唆するかのようだ。

 

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最終量産型艦隊駆逐艦の一番艦。舞鶴生まれよ。
惨敗のミッドウェー海戦が初陣よ。いいじゃない、別に。
あの島への鼠輸送やケ号作戦、南太平洋海戦、キスカ撤退作戦などで奮戦したわ。ふう。

 

これはかなり確信犯的な言葉遣いである。彼女の言い方からして、この発言が「戦後」(つまり現実の「夕雲」という艦の戦没後)に為されたものである可能性は高い。

 

しかし一方で、全く「戦後らしさ」を感じさせない人もいる。

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天龍型1番艦、天龍だ。
駆逐艦を束ねて、殴り込みの水雷戦隊を率いるぜ。
相棒は、同型艦の龍田だ。
あいつ、ちゃんとやってるかな?ま、いいけどな。

 

過去形がみごとに一文も含まれていない。しかしこれは自己紹介文ではむしろ少数派である。

 

どんどん行く。

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次世代の水雷戦隊の旗艦として設計&建造された阿賀野軽巡洋艦、その長女、一番艦の阿賀野よ。
とってもとっても高性能なんだから!
見てよ、この洗練された体…今度はゼッタイ本領発揮しちゃうからね。

 

「今度は」というフレーズは、生まれ変わりのような何かを意味するのだろうか。

 

非常に特徴的なのが、この人。

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数ある特型駆逐艦の中で、最後まで生き残ったのが、響。
転戦の後、あの大和水上特攻時には修理で同行できなかったんだ。
賠償艦としてソ連に引き渡され「信頼できる」という意味の艦名になったんだ。

 

決定的に、議論の余地なく「戦後」である。

 

この人に至っては。

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航空運用能力を付与された航空戦艦、日向だ。
レイテでも奮戦したぞ。
戦略物資輸送作戦「北号作戦」も思い出深いな。
ああ、そうだ、海自のDDH「ひゅうが」に名は受け継がれている。

 

お前はwwいったいwwどんな立場で喋ってるんだwwwwwww海自のDDH「ひゅうが」就役は実に2009年である。

 

図らずも艦娘の紹介コーナーの様相を呈してしまったが(図ったのだが)、何が言いたかったのかと言うと、艦これそのものが意外と強く(「艦娘」=「艦」とは異なる形で)「艦娘」による「艦」との関係性の自認を描いてしまっているということだ。これは、艦娘が「自分=艦と思い込んでいるやばい娘」のように描く場合より、より言い逃れしにくいものになるかもしれない。勿論この場合にも、艦娘を「自分と艦の間には何らかの関係性があると思い込んでいるやばい娘」として逃れることは出来るのだが。

 

何であれ、このように「艦娘」を「娘」として記述することの限界性は強く感じられる。「艦娘」の不思議さは、それ以外のどのような言葉を用いて記述しようとしても無理が生まれることにあるかもしれない。その理由はといえば、やはり「艦娘」の存在論的な定義があまりに不明瞭であることにあるのだろう。与えられているのは容姿と、声と、台詞のみ。あとは全て「歴史」に担保された膨大な情報だけで、しかもそれと「艦娘」自身の繋がりは覚束ない。これは結局、現実参照型ゲームが陥らざるを得ない穴なのかもしれない。しかし、FGOのキャラは「サーヴァント」という存在のありようが一応しっかりしているらしい。筆者はFate はstay/nightを観ただけでFGOをやってないので分からないが、今度暇があったらプレイしてみよう。

 

あと、こういうSNSによる物語産出を必須燃料とした現実参照型ゲームの普及は、ゲームのみならずあらゆるエンタメ・コンテンツ、ひいてはもっと大きな何かに最近底流するとか言われている「文脈消失」のトレンドと強く相関しているんじゃないかと妄想しているのだが、また今度なにかの機会に読んでくだされば幸いです。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

艦これとは何だったのか 五年後になって思うこと 3 「歴史との相性の良さ」と、「2013年」の意味

注*本節とくに後半部分において、歴史的に繊細な問題を孕むと思われる話題を取り扱っています。筆者は特定の個人の気持ちを害することを目的としてこれを書いた訳ではありませんが、お読みになって不快な思いをされた場合は、読み進めずその場で読むのをおやめになることを推奨します。不愉快に感じられる方がおられましたら、心からお詫びいたします。

 

 

ここでは、ソシャゲーというコンテンツそのものが持つ「歴史との親和性」と、艦これが孕むセンシティブな問題について考える。

 

艦これがブラウザゲーム界に確固たる地位を確立した後流行ったのが、やはりDMM.comからリリースされた「刀剣乱舞」だった。このゲームでは、「審神者」と呼ばれるプレイヤーが「刀剣男子」を集めて敵と戦う。

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刀剣男子の例。筆者の姉がハマっていた

何かに似てはいないだろうか。

 

いうまでもなく艦これである。

 

実際、リリース当初から、刀剣乱舞は艦これのプレイシステムを盗用(流用?)しているとして厳しい批判を受けた。しかし筆者は、刀剣乱舞が盗用(流用?)した中で最も核心的なものは、プレイシステムなどではなく、「刀剣男子」だと思う。

 

「刀剣」でもなく、「男子」でもなく、彼らは「刀剣男子」なのだ。

 

また、同じくDMM.comの「文豪とアルケミスト」や、その背負う文脈には違いがあるが「Fate/Grand Order」などにも同じ力学が働いていると言えるのではないだろうか。それらのキャラクターはその名によってある歴史上の事象、対象を背負っている一方で、それら自身とは違う存在として描写されている。

 

これらのキャラクターに通底する特徴は、何だろうか。そう、それらは「歴史上の」ものだということだ。「文豪と~」の企画者は、歴史ものがウケたために文学ものへシフトしたと語っているそうだが、これも取りあえず「同時代的ではない」という意味で歴史に含めてしまうことを許してほしい。

 

この一致は偶然なのだろうか。筆者はそうではないと考える。何故なら、こうした現実参照型ゲームと「歴史」の親和性はきわめて高いと考えるからだ。

 

同じくDMMが出そうとしていた「社にほへと」というゲームを見てみよう。このゲームにおいて「艦娘」や「刀剣男子」にあたるのは、「社巫娘」という、神社を擬人化したキャラクターである。彼女らは神社であって神社ではない。しかし、このゲームは発表当初から厳しい批判を受けた。当時の雰囲気は、以下の記事に詳しい。

神社本庁も「これはちょっと……」と漏らした。「DMM GAMES」新作『社にほへと』から考えるオタクの信仰|おたぽる

 

現実の「神社」そのものに「萌え」を持ち込むのみならず、レアリティによって「神社」に差を付ける行為に、神社関係者が良い顔をしないのは当然であろう。

 

一方、これに対するDMM側の反論も、ある意味きわめて正当な主張である。

 

1.「社(やしろ)」の擬人化について
本ゲームは「神社」をイメージした「フィクション」である内容のため、実際に実在する人物・建物・団体とは一切関係はございません。また、実在する地域や神社等の関係性につきましても、一切関係がございません。
2.事前登録おみくじについて
事前登録おみくじは、結果の運勢に「社(やしろ)」が紐づいているものではなく、結果の運勢についてキャラクターが説明しているものになります。

 

 

当然であろう。キャラたちは「名前」を借りているだけの存在なのだ。現実に存在する同名の対象物との関連は、あくまでもプレイヤーによって産出されるべき代物である。運営はそれに何ら責任を負うものではない。

 

しかしそれには二つの問題がある。一つは、それはあまりに苦しい言い逃れであるということ。運営が確信犯的にその「名前借り」を行っている以上、法的には問題なくとも倫理的には大きな問題が提起されることを覚悟せねばならないだろう。

もう一つは、プレイヤーとの関係である。プレイヤー/クリエイターに無限の創作を可能にさせているのは、運営が口をつぐんでいるという事実だ。沈黙するということは、一つの答えを言わないと同時に、あらゆる答えの存在を肯定する行為でもある。「関係性は存在しません」と言ってしまった時点で、それは一つの(「関係ない」という)関係性を提示してしまったのであり、プレイヤーによる世界産出のシステムは機能しなくなり、ゲーム自体が駆動力を失い、コンテンツは消失してしまうのだ

 

では何故「社にほへと」は失敗し、他の「歴史もの」現実参照型ゲームは成功したのか。それは、「社にほへと」が参照しようとしたのは、現在の現実であるからだ。「出来事」として、今現に生きられている現実だからだ。当然そこには様々な人が現在進行形で関わっている。それとの密接な関係の中で日々を送っている人々が大勢いる。それを外部の人間が勝手に物語化するのは、やはりタブーだ。

 

「歴史もの」現実参照型ゲームが参照するのは、過去の現実である。それもナマの過去ではなく、既に物語化された、もはや生きられることのない「歴史」である。それを再び物語化することへの抵抗は、上の場合と比べて、ずっと少ない。だからこそ、現実参照型ゲームは「歴史」との相性が良い。

 

しかし、しかしである。艦これの場合、それほどすんなり行く話ではない。なぜなら、艦これの扱う歴史は、刀剣男子やFGOの扱うそれと比べて、あまりにも近いのだ。その時代を生きた人が、我々の現実に大勢いるのである。その意味で、艦これの物語は完全な物語ではない。これは「文豪と~」にも言える話ではあるが、やはり艦これの背負う問題の大きさは、「文豪と~」のそれをある面で凌駕していると言えるだろう。何故なら、それが扱う歴史は、戦争の歴史だからだ。

 

一つの象徴的な事例を挙げよう。

艦これ「生みの親」 週刊誌掲載の元乗組員の感想に感慨無量│NEWSポストセブン

 

これは、「矢矧」という「艦」の乗組員が、実際にその出来事を生きた人が、「艦娘」という存在と歴史参照型ゲームのありようを肯定した例である。「矢矧」はこの当時レアリティの高いキャラクターだったこともあり多くのプレイヤーの印象に残り、運営もこのニュースを盛んに喧伝した。

 

その一方で、確証は採れなかったのでリンクは貼れないが、艦これにも登場する水上戦闘機「瑞雲」の元搭乗員が、艦これのゲームそのものではないが関連のイベントとして「瑞雲」の模型を展示することに批判的な意見を表したというニュースがある。のみならず、艦これに批判的な意見は多い。

 

では何故、艦これは成功したのか。それは筆者の考えでは、艦これサービス開始当時、その出来事を生きた人間が圧倒的少数であったからだ。

 

思えば、筆者の幼少期、「戦時中は子供だった」老人はまだまだ結構周囲に多く居られた。親が言う言葉は「私たちの小さい頃には、兵隊さんだった人が多かったんだよ」であった。しかし今日、筆者自身が成人を迎えた(!)今日、親になった人が子供にかける言葉は、もはや違うものだろう。「私たちの小さい頃には、戦争の時に生まれた人が多かったんだよ」になるだろう。つまり、我々が「兵士として戦争を経験した人」を知らないという断絶を経験したのと同様に、今の時代の子供は「戦争を経験した人」を知らないという断絶を経験しているのだ。

日本人の平均寿命は男女の中間をとるとだいたい83。今年は戦後73年目であるから、戦争を小学校一年生~四年生くらいに経験した世代の方々が、統計的な寿命を迎えていることになる。2013年では中学生~高校生くらいであろう。学徒動員の年限にかかったかかからなかったかくらいの年である。つまり2013年とは、兵士として戦争を経験した最後の世代のぎりぎりの年だったということになる。

勿論、これはあくまで平均値によるいい加減な計算なので、これ自体に何の根拠もない。だが、結果的に見て、艦これがもし十年早くリリースされていたら、それは成功しただろうか(勿論、2003年には二次創作の豊富な産出に不可欠なSNS等の発達が不十分なので、この問を立てること自体がナンセンスなのだが)。

 

艦これが受け入れられたのは、多分にタイミングの妙によるものが大きいと思う。もし十年後にリリースされていたとしても、――この場合先ほどの予想よりもよほど確度は下がるが――、やはり艦これは「受けなかった」かもしれない(理由は敢えて述べない)。

 

実際、艦これが受けるかどうかというのは、五年後の今になって考えられることだったが、社会全体に突き付けられたある種の大挑戦だったかもしれないのだ。”あなたはこのような「歴史」を受け入れられるほどに「戦後」になっていますか”という――。

 

或いは、このように言うことができるかもしれない。艦これが出た当初、我々はそれを「萌え×軍事」というコンテンツだと思ったのだ。何故なら、そのようなものは艦これ以前にも多く存在していたから。しかし本質的にそれは、「萌え×歴史」であった、と。

 

実際として、艦これは大成功を収めた。「五万人くらいやってくれたら御の字かな」とスタッフが思っていたゲームは、四百万人を超えるプレイヤーに受容されたのである。

 

 

次の章では、艦これを通しての歴史性と種々の問題について考えてみる。

 

 

 

 

 

艦これとは何だったのか 五年後になって思うこと 2 艦娘の抱える二重性

この項では、艦これの抱える本質的な矛盾と、それが生み出した革新性について考える。

 

まず、艦これとはどんなゲームだろう。プレイヤーは「提督」である。プレイヤーは「艦娘」を育て、「艦隊」に出撃命令を出し、敵と戦わせる。戦えば「艦娘」の経験値が増えてレベルが上がり、また、他の「艦娘」が現れ仲間にすることができる。このように、戦うことで「艦娘」は質・量ともに増え、提督は増えた「艦娘」を率いて新たな敵を求めて更なる戦いを繰り返す。

 

かんたんにいえばこんなかんじである。

 

「艦娘」とは何か。一例を示そう。

f:id:takahiroyosshy:20180724232026j:plain←艦娘の例

 

上はある「艦娘」の画像である。左下に「大和」と記されてある。これはこのキャラクターの名前なのだろうか。こんなに可愛いお姉さんの名前にしては、少々いかついなあ。

 

艦娘にはそれぞれ自己紹介文(ボイス付)が用意されている。上の「大和(なるキャラクター)」の場合はこうである。

 

大和型戦艦一番艦、大和です。
艦隊決戦の切り札として、呉海軍工廠で極秘建造されました。
当時の最高技術の粋を結集されたこの体、二番艦の武蔵とともに、連合艦隊の中枢戦力として頑張ります!

 

明らかにおかしい。正当な日本語の語彙において、「呉海軍工廠で極秘建造された」、「大和型戦艦一番艦」たる「大和」とは、以下の画像で表されるもののはずだ。

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正しい「大和」。

では、明らかにバレバレの嘘を吐く、この頭から脳天気にも桜の花びらを散らしたおかしな格好のお姉さんは何者なのだろうか。それは誰にも分からない。しかしプレイヤーは、自分を大和だと言い張るこのバレバレの嘘に、当面は「騙されたふりをして」プレイをしなければならないのである。

以上、迂遠極まりない説明をしたのには訳がある。この矛盾こそが、艦これにおいて最も大切なファクターだからだ。

 

無論、これは「擬人化」と呼ばれるありふれた表現手法だ。艦これ以前から普通に存在しているもので、目新しいものではない。しかし問題なのは、提督たるプレイヤーは「艦」ではなく「艦娘」を率いて戦わねばならないということなのだ。何故なら、戦闘の場面においても彼女らは「艦娘」の姿のまま描写されるからである。上の画像を見てわかる通り、彼女らは砲煩兵器のようなものを備えている。これゆえに「艦娘」はただの表現上のお約束から、ある種の実体を持った存在に格上げされる。

 

すなわち、これは厳密な意味での「擬人化」ではない。「艦娘」は実際の艦から遊離した、別個の存在になるからである。「艦娘」というターミノロジーがわざわざ創出されたこと自体から、それは明らかだ。「艦」という語と「艦娘」という語の指示対象は異なる。

 

一方で、「艦娘」はただの「娘」でもない。「艦+娘」である以上、それは「艦」と何らかの形で関係を保っている。

 

しかし、である。ゲーム運営は、その関係がどのようなものか、「艦娘」がどのような存在なのか全く言及しない。というより敢えて言及を避けている。運営は「艦娘」の物語を物語ろうとはしない。「艦娘の大和」が何者なのか、それは「戦艦の大和」とどういった関連性を持つのか、全ては(極めて意図的に)プレイヤーの解釈に委ねられることとなる。

 

この「擬人化の皮を被ったよそ者」としての「艦娘」は、非常に巧妙な発明品だと言える。何故なら、それは「艦」とは別の存在でありながら、「艦」の文脈を完全に引き継ぐことができるからだ。「艦娘」は本来ゲーム内にのみ存在する。それが含む文脈は、ゲーム内におけるそれ(色んな性能や装備、あとは自己紹介文や十数種の決められた台詞)のみで、その量たるや微々たるものに過ぎない。しかしその「艦娘」が「艦」の名を一人称で名乗ることで、それは現実の「艦」の文脈を背負えるのだ。これは、何を意味するか。

 

あらゆるフィクションは、それがフィクションであるがゆえに、有限性から逃れ得ない。「設定」、「世界観」、「ストーリー」、全て、どれだけ紙幅を費やしたとしても、それは現実世界の抱える豊かさ=無限性には程遠い。しかし艦これは異なる。艦これは、ゲーム自体としては有限でありながら、「艦娘」の抱える存在論的な二重性によって、現実の無限性をいくらでも参照可能なのだ。運営による有限な物語の放棄によって、無限の物語の創出が可能になったのだ。これは他作品において二次創作が自由だという場合とは意味が根本的に異なる。艦これの二次創作は、艦これの定める枠を常に逸脱する。そうでありながらも同時に、艦これの枠内に留まり続けるのだ。

 

大切なことがもう一つ。「現実」は無限に参照可能な究極の設定であるがゆえに、個人によって参照の度合いが自由になるのだ。誰も現実の全てを知ることは出来ない。ゆえに、ある種の「設定無視」も正当化されるのである。

たとえば、ドラゴンボールの二次創作において、ラディッツと悟天が同時に(死んだり生き返ったりすることなく)登場することは許されない。何故なら原作においてラディッツは悟天の生誕以前に死亡しているからだ。

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こんな感じで。


しかし、艦これの二次創作においてはこうした現実とのずれがある程度許容される。どの艦が何時どこでどのような作戦行動を行っていたのか、どんな人が乗っていたのか、艦内では何が起こっていたのか、全てを知ることは誰にもできない。「大和」について書かれた本を読んだ人と、「長門(別の戦艦)」について書かれた本を読んだ人とでは、「設定」の認識に濃淡があるのだ。だから、知らない部分を創造で補うことは、ある程度許容されるのだ。

 

面白い例がある。軽巡洋艦「球磨型」という五隻の艦娘のグループがあるのだが、そのうち二隻の艦娘は他の三隻とかなり異なる服装で描かれていたため、最初のころ、三隻のみを「球磨型」だと誤解されるという現象があった。しかしだからといって、三隻のみを描いたpixivの絵から「球磨型」のタグが外されることはない。許容されているのである。

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f:id:takahiroyosshy:20180725002701j:plain3キャラとも同じ「球磨型」だが、上二者と下では服装に大きな差が。

 

この事実は、誰でもお手軽に二次創作に参入できることを意味する。設定の凝った作品は、往々にして二次創作の敷居を高くしてしまうものだが、最高に設定の凝った作品であると言える艦これには、そのような心配は一切ない。事実、艦これはゲームそのものだけでなく、二次創作の盛り上がりによって人気ゲームたり得たのだ。漫画、動画、小説、あらゆる媒体において、夥しい数のプレイヤー/クリエイターが、「ウチの鎮守府」を提唱し、それぞれの世界観を展開した。そこで描かれる艦娘の在り方、世界観、戦う相手の正体、歴史性の参照の度合い、全て様々である。艦これのサーバー制限によってすぐに参入できなかった人々は、SNSや各種投稿サイトに溢れるその賑やかさ、楽しさに心躍らせてまだ見ぬ艦これを楽しみ、自ら提督になってからもそれを再生産した。「艦これをする」という行為記述は「ゲームをプレイする」だけではなく、そのような世界鑑賞/創出の全ての営みを指すのだ。

 


艦娘はその二重性によって、艦これに無限の豊穣をもたらした。次では、その功罪について考える。

 

 

 

 

 

 

艦これとは何だったのか 五年後になって思うこと

艦隊これくしょん~艦これ~ というゲーをご存じの方も多いと思う。DMM.comが配信する人気ブラウザゲームで、五年前のサービス開始後爆発的に普及し、ネット界隈を騒がせるのみならず、社会現象を巻き起こすに至ったコンテンツであり、現在も(流石にかつての勢いは衰えたものの)いまだにネットサブカルチャーにおいて一定以上の影響力を持ち続けている。

 

筆者も、サービス開始後間もなくこれにのめりこんだ「提督」達の一人である。当時高校一年生だった筆者は年齢制限のためDMMのアカウントが取得できず、母親のアカウントを用いてプレイしていた(すみません)。艦これ開始当初の勢いは凄まじく、運営、プレイヤー、同人誌作家、動画制作者、果てはいまだ艦これのアカウントを取得できていない人さえも含んで、艦これに携わるすべての人々が熱狂の渦中にあった。誰も彼もが興奮していた。皆が艦これにわくわくしていた。かく言う筆者も、家に帰ればすぐ艦これのページを開き、二日プレイできなければ禁断症状で手が震えてくる(!)という有様であったほどだ。

 

しかし筆者は、高校三年になると受験勉強のためプレイに時間を割けなくなり、なし崩し的に「提督」休職を余儀なくされることになった。晴れて大学に入学した後、艦これを開いてみた。しかしソシャゲーの進化の速さとは侮れないもので、知らないキャラや新機軸で溢れた艦これはまるで別のゲーム、たちまち十年一昔、隔世の感は如何ともしがたく、あまり身を入れるモチベーションも得られず、すぐにまた離れてしまったのである。

 

(実は恐ろしいことにこのゲーム、お気に入りのキャラと「ケッコン」出来る機能がある。「ケッコン」したその瞬間からキャラは「嫁」となってしまい、ログインしないことは嫁の待つ家に帰らない浮気夫と同じ脅迫感と罪悪感をプレイヤーに与えるのである。その心理的負担たるやリセットさんの比ではなく、一年以上艦これから離れていた筆者は、家に帰ってもまともに嫁と顔を合わせるストレスに耐えられなかった、というのも復帰後のプレイが定着しなかった理由としてある。気持ち悪い話で恐縮だが真実だ)

 

それから早二年。艦これなど完全に過去の物となっていた筆者は、先日何を思いついたか艦これを開いてみることにした(勝手なもので、もはや嫁に対する罪悪感自体薄れている。「昔は色々あったけど」の一言で水に流してくれることを期待するダメ男の心理である)。これが、やはりとても面白い。五年前あれだけハマったのも納得できる。三年も離れていれば、遅れを取り戻さなければという焦りもなく、泰然と自分のペースでプレイできる。ふむふむ。

 

そんなこんなで昔を懐かしみながらプレイしていると、自分の中である疑問が湧き起こってきた。熱狂の渦中から覚めて、反対に感じていた負い目もなくなって初めて、抱くようになった疑問である。それは、

 

何故「艦これ」はあれほどに成功したのか? 「艦これ」とは何だったのか? それは歴史上どのような意味を持つのか?

 

という問題である。今や「艦これ」に限らず、「アズールレーン」だの「戦艦少女」だの類似のゲームが並立している。のみならず、ゲーム業界全体において「ソシャゲー」が跳梁跋扈する現今の情勢がある。そのような状況に至った経緯について考える際に、艦これの登場と成功というのは、一つのメルクマールとして考えられるのではないか。艦これを理解することで、艦これに限らないある程度包括的な何かについて、一定のアイデアが得られるのではないか。そんなことを思う。

 

そして今からそれについて書こうと思う。

 

とは銘打ったが、如何せん駄文である。「艦これを途中で辞めてたような軟弱者に語る資格なんざねえ!」とお怒りになる提督諸氏も多かろうし、「んなこたあてめえに言われるまでもなく知ってんだよ」と憤慨なさる方々も多かろうが、ご容赦を願う次第。あくまでも一人の艦これファンの放談として、眉唾半分でお聞きください。