艦これとは何だったのか 五年後になって思うこと 2 艦娘の抱える二重性

この項では、艦これの抱える本質的な矛盾と、それが生み出した革新性について考える。

 

まず、艦これとはどんなゲームだろう。プレイヤーは「提督」である。プレイヤーは「艦娘」を育て、「艦隊」に出撃命令を出し、敵と戦わせる。戦えば「艦娘」の経験値が増えてレベルが上がり、また、他の「艦娘」が現れ仲間にすることができる。このように、戦うことで「艦娘」は質・量ともに増え、提督は増えた「艦娘」を率いて新たな敵を求めて更なる戦いを繰り返す。

 

かんたんにいえばこんなかんじである。

 

「艦娘」とは何か。一例を示そう。

f:id:takahiroyosshy:20180724232026j:plain←艦娘の例

 

上はある「艦娘」の画像である。左下に「大和」と記されてある。これはこのキャラクターの名前なのだろうか。こんなに可愛いお姉さんの名前にしては、少々いかついなあ。

 

艦娘にはそれぞれ自己紹介文(ボイス付)が用意されている。上の「大和(なるキャラクター)」の場合はこうである。

 

大和型戦艦一番艦、大和です。
艦隊決戦の切り札として、呉海軍工廠で極秘建造されました。
当時の最高技術の粋を結集されたこの体、二番艦の武蔵とともに、連合艦隊の中枢戦力として頑張ります!

 

明らかにおかしい。正当な日本語の語彙において、「呉海軍工廠で極秘建造された」、「大和型戦艦一番艦」たる「大和」とは、以下の画像で表されるもののはずだ。

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正しい「大和」。

では、明らかにバレバレの嘘を吐く、この頭から脳天気にも桜の花びらを散らしたおかしな格好のお姉さんは何者なのだろうか。それは誰にも分からない。しかしプレイヤーは、自分を大和だと言い張るこのバレバレの嘘に、当面は「騙されたふりをして」プレイをしなければならないのである。

以上、迂遠極まりない説明をしたのには訳がある。この矛盾こそが、艦これにおいて最も大切なファクターだからだ。

 

無論、これは「擬人化」と呼ばれるありふれた表現手法だ。艦これ以前から普通に存在しているもので、目新しいものではない。しかし問題なのは、提督たるプレイヤーは「艦」ではなく「艦娘」を率いて戦わねばならないということなのだ。何故なら、戦闘の場面においても彼女らは「艦娘」の姿のまま描写されるからである。上の画像を見てわかる通り、彼女らは砲煩兵器のようなものを備えている。これゆえに「艦娘」はただの表現上のお約束から、ある種の実体を持った存在に格上げされる。

 

すなわち、これは厳密な意味での「擬人化」ではない。「艦娘」は実際の艦から遊離した、別個の存在になるからである。「艦娘」というターミノロジーがわざわざ創出されたこと自体から、それは明らかだ。「艦」という語と「艦娘」という語の指示対象は異なる。

 

一方で、「艦娘」はただの「娘」でもない。「艦+娘」である以上、それは「艦」と何らかの形で関係を保っている。

 

しかし、である。ゲーム運営は、その関係がどのようなものか、「艦娘」がどのような存在なのか全く言及しない。というより敢えて言及を避けている。運営は「艦娘」の物語を物語ろうとはしない。「艦娘の大和」が何者なのか、それは「戦艦の大和」とどういった関連性を持つのか、全ては(極めて意図的に)プレイヤーの解釈に委ねられることとなる。

 

この「擬人化の皮を被ったよそ者」としての「艦娘」は、非常に巧妙な発明品だと言える。何故なら、それは「艦」とは別の存在でありながら、「艦」の文脈を完全に引き継ぐことができるからだ。「艦娘」は本来ゲーム内にのみ存在する。それが含む文脈は、ゲーム内におけるそれ(色んな性能や装備、あとは自己紹介文や十数種の決められた台詞)のみで、その量たるや微々たるものに過ぎない。しかしその「艦娘」が「艦」の名を一人称で名乗ることで、それは現実の「艦」の文脈を背負えるのだ。これは、何を意味するか。

 

あらゆるフィクションは、それがフィクションであるがゆえに、有限性から逃れ得ない。「設定」、「世界観」、「ストーリー」、全て、どれだけ紙幅を費やしたとしても、それは現実世界の抱える豊かさ=無限性には程遠い。しかし艦これは異なる。艦これは、ゲーム自体としては有限でありながら、「艦娘」の抱える存在論的な二重性によって、現実の無限性をいくらでも参照可能なのだ。運営による有限な物語の放棄によって、無限の物語の創出が可能になったのだ。これは他作品において二次創作が自由だという場合とは意味が根本的に異なる。艦これの二次創作は、艦これの定める枠を常に逸脱する。そうでありながらも同時に、艦これの枠内に留まり続けるのだ。

 

大切なことがもう一つ。「現実」は無限に参照可能な究極の設定であるがゆえに、個人によって参照の度合いが自由になるのだ。誰も現実の全てを知ることは出来ない。ゆえに、ある種の「設定無視」も正当化されるのである。

たとえば、ドラゴンボールの二次創作において、ラディッツと悟天が同時に(死んだり生き返ったりすることなく)登場することは許されない。何故なら原作においてラディッツは悟天の生誕以前に死亡しているからだ。

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こんな感じで。


しかし、艦これの二次創作においてはこうした現実とのずれがある程度許容される。どの艦が何時どこでどのような作戦行動を行っていたのか、どんな人が乗っていたのか、艦内では何が起こっていたのか、全てを知ることは誰にもできない。「大和」について書かれた本を読んだ人と、「長門(別の戦艦)」について書かれた本を読んだ人とでは、「設定」の認識に濃淡があるのだ。だから、知らない部分を創造で補うことは、ある程度許容されるのだ。

 

面白い例がある。軽巡洋艦「球磨型」という五隻の艦娘のグループがあるのだが、そのうち二隻の艦娘は他の三隻とかなり異なる服装で描かれていたため、最初のころ、三隻のみを「球磨型」だと誤解されるという現象があった。しかしだからといって、三隻のみを描いたpixivの絵から「球磨型」のタグが外されることはない。許容されているのである。

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f:id:takahiroyosshy:20180725002701j:plain3キャラとも同じ「球磨型」だが、上二者と下では服装に大きな差が。

 

この事実は、誰でもお手軽に二次創作に参入できることを意味する。設定の凝った作品は、往々にして二次創作の敷居を高くしてしまうものだが、最高に設定の凝った作品であると言える艦これには、そのような心配は一切ない。事実、艦これはゲームそのものだけでなく、二次創作の盛り上がりによって人気ゲームたり得たのだ。漫画、動画、小説、あらゆる媒体において、夥しい数のプレイヤー/クリエイターが、「ウチの鎮守府」を提唱し、それぞれの世界観を展開した。そこで描かれる艦娘の在り方、世界観、戦う相手の正体、歴史性の参照の度合い、全て様々である。艦これのサーバー制限によってすぐに参入できなかった人々は、SNSや各種投稿サイトに溢れるその賑やかさ、楽しさに心躍らせてまだ見ぬ艦これを楽しみ、自ら提督になってからもそれを再生産した。「艦これをする」という行為記述は「ゲームをプレイする」だけではなく、そのような世界鑑賞/創出の全ての営みを指すのだ。

 


艦娘はその二重性によって、艦これに無限の豊穣をもたらした。次では、その功罪について考える。