新海誠監督『天気の子』レポ 「今」を描くということ。

――これは僕たちの話だ。

 

映画の中盤に入る頃、降ってわいたその確信は、終幕まで途切れることは無かった。

先に言ってしまうと、僕はこの映画が『君の名は。』の百倍好きだと思った。正直言って震えた。僕の今までに観たアニメ映画の中で堂々の一位だった『サマーウォーズ』を抜いてしまったかもしれない。

 

物凄く失礼な言い方になるのだが、観る前にそこまでの期待はしていなかった。僕は新海誠監督の映画は全部好きという訳では無かったし(正直『秒速5センチメートル』は嫌いだ)、『君の名は。』も僕が本当に好きな映画とは思えなかったから。でも、とにかく画が綺麗だし、そこかしこで見た予告編から察するに、都会の話っぽかったから、僕の好きな街、東京の、前作で観た(もちろん『言の葉の庭』でも観た)あの綺麗な姿がもう一度観られるなら、それだけでも大満足だったから、わくわくして観に行った(僕は新海誠監督の画で、自然よりも都会の画の方が好きだ)。

でも、お話にはそこまで期待していなかった。

最初の二十分から三十分は、そういうモチベで観ていたと思う。主人公の背景が全く描かれないし、登場人物もそれほどキャラが立っているようには思えなくていまいち感情移入できなかったから。

だけれどあるシーンで観方が変わった。

それはごく何気ないシーンで、物語の「筋」にかかわるような大事なところではない。どんな内容なのか、ネタバレになってしまうので具体的なことは書けないけれども、要するにある大人が、歪になってしまった今の世界を、正常だった嘗ての世界と対比して慨嘆するのである。

 

ごく簡単に吐き出されたその言葉が不思議と際立って聞こえた理由は、すぐに分かった。

それだけが、この映画のここまでで、まったく逆の視点から投げかけられた台詞だったのだ。

そして、それ以外の全ては、子供の、「嘗ての世界」を知らない人の、今の世界しか知らない人の言葉なのだ。

そう思った瞬間、全部がひっくり返って、僕も映画に入り込めた。百倍面白くなった。それからは、最後までずっとだった。

 

これは、「今」の話だ。「今」の話なんだ。今を生きている人が、現実に感じている漠然とした不安、不信――それを表現した。そういう映画なんだ。強烈にそう思った。降り続く雨、明らかにおかしくなりつつある気候、ただ生き苦しさだけで故郷を飛び出し夢も持たずに都会へ出る人、お互い素性の知れない人の群れ。背景の無い他人。背景の無い自分。子供みたいな大人。脈絡の無い暴力。ネット。バイト。就活。映画に出てくるそれら全ては、今の社会を生きている人たちの感じていること其の儘なのだと思った。これはそれを、ありのままに表現しているような気がした。

 

僕は映画を全然観ないし、アニメにも詳しくないのだけれど、「今」という時代の雰囲気を描くことにおいて、ここまで傑出したレベルに到達した監督は、そうは居ないんじゃないかと思う。

たとえば、比べるのも本当におかしな話だけれども、僕の好きな『サマーウォーズ』の細田守監督とか、また僕の好きな宮崎駿監督の映画はこのような話には決してならないだろう。ファンタジーだからという話ではなくて、子供に「ありうべき姿」を見せる、一種の教育的な性格を持っていると僕は思うから。むろん、『天気の子』だって荒唐無稽なファンタジーだけれども、そこで描かれているものは、どうしようもなく僕達の目の前にある現実なのだった。

そして僕たち(主人公は十六歳だから、僕を「僕たち」に含めると怒られるかもしれないけれど)は「今」以外を知らない。僕たちが今感じている世界に対する不安感は、物心ついた時から僕たちの傍らにあった。気象変動もネットによる人間関係の崩壊も、とっくに起こっていたのだ。僕たちは本当の意味で「曾ての世界」を知らない。

それが僕らの普通なのだ。

それはある意味で不健全なことだ。悪いことだ。

でも――だからこそ――、主人公は物語の中途でこう願うのだ。「神様、今のままで良い。だから今の僕達から足したり引いたりしないでください*1」。

それは悪いことだけれど。

リアルな願いだ。

 

だからこれは「良い話」では無いかもしれないけれど、間違いなく「良い作品」なのだ。

 

この話のテーマに「天気」を選んだのは、本当に凄いと思う。世の中の不安を抱えて生きている人、露悪的に、斜に構えていないととても生きていけない今の人を描くときには、小難しいモチーフを持って来てしまう。けれど、そんな世界だからこそ、人は朝起きて天気が良いと気分も良くなり、悪いと気分も沈むという当たり前が映えて見えてくるのだ(それは「辛いときこそ人はそうしたものを大事にする」とも「そうしたものでしか心安らげないほど辛い」とも読める)。もう素晴らしくそれが見えてくるのだ。

 

色々講釈垂れることはそりゃあできるだろう。たとえば、セカイ系、と括ってしまうこともできるし、それはある意味全く正しいと思うけれど、そこで動機として描かれている「不安」は、これまでのセカイ系が描いて来たものと必ずしも同じではないとも思う。それは単なる「思春期特有の悩み」では決してない筈だった。

 

それに話の筋だけみれば、これまでまでと同じ「恋愛という至上命題のために種々の不都合が黙殺されちゃう話」だ言い切れると思う。思うが、しかし。

 

僕にとっての良さは、そこではなかった。

*1:記憶による再生のためズレ有り